アメリカのクラシック映画になったアメリカ文学『雨の朝パリに死す』

#日大通信教育部の文理学部 文学専攻 (#英文学)で、今、#アメリカ文学史の勉強をしています。

 

F・スコット#フィッツジェラルドというアメリカの作家さんは、

かの村上春樹氏が尊敬する作家ということで、

かつて、『#グレート・ギャッツビー』という彼の長編小説を、

英語の原書で読み、その朗読CDを聴き、

邦訳で読み(それも訳者が違う2種類、そのうちのひとりが村上春樹氏)

最後に映画2種類(製作年や俳優が違うDVD2種類)を観ました。

その時は、「なんで、これがいいのかなぁ」と、思いました。

村上春樹氏の作品は好きだけど、

彼が尊敬するアメリカのフィッツジェラルドさんの作品は好きじゃないわ~

と思いました。

『グレート・ギャッツビー(偉大なるギャッツビー)』は

なんで好きじゃなかったかというと、

主人公ギャッツビーが愛する女性デイジーが軽薄で、薄情で、ギャッツビーがそこまで愛し、追い求める価値がないのに、と思ったからです。

あと、金持ち社会の在り方とか。

ただただ、虚しい感じが残りました。

 

ところが、同じフィッツジェラルドさんの作品でも、『#雨の朝パリに死す』という短編は、よかったのです。

この題名は、邦画になったときの題名で、原作の題名は #Babylon Revisited です。

意味は、『悪都再訪』です。

第一次世界大戦後のパリには多くのアメリカ人が住んでいたそうです。

そして、戦後好景気に浮かれて、お金を湯水のように使い、放蕩の限りを尽くしていたとか。それはこの作品中に書いてあるのですが、パリ在住のアメリカ人全員ではなく、一部の人たちのようですが。

だから、そのころのパリを作者(あるいは主人公)は『悪都』と反省気味に呼んでいるのです。

もう、この時点で、好き。

『グレート・ギャッツビー』の中ではこの反省する節が、私には読み取れませんでした。

このフィッツジェラルドさんは、自分の体験に基づいて書くことが多いらしく、自身も奥さんと一緒にそんな浪費家的な暮らしをしたことがあったそうです。

 

雨の朝パリに死す

の予備知識としては、本と映画の終わり方が違うということでした。

本では悲しい終わり方なのに、映画ではハッピーエンドに変えられている、と。

でも、本を読んで、そんなに悲劇的な終わり方でもないな、と思いました。

手離してしまった娘を取り戻すために、主人公の男性チャーリーはパリを再訪するのですが、本では取り戻すことができずにアメリカへ帰国し、映画では、「もう、ダメか…」というところで「パパ! 」と娘が主人公の腕の中へ飛び込んで来て、感動のハッピーエンドとなるわけです。

ハッピーエンドと言っても、妻を自分の不注意で亡くしてしまっているので、半分だけハッピーです。

その妻の死が『雨の朝パリに死す』という邦題に表れています。

確かに、本では娘を取り返すことなく、パリを去る場面で終わるのですが、最後に主人公チャーリーは心に誓います。

「おれはまたいつか戻ってくる。…略…とにかくおれはわが子が欲しい。そのこと以外、今はさして楽しいことは何もない。…略…自分がこんなにも孤独であることを、おそらくヘレン(亡き妻)は望んでいなかったろう。彼はそうはっきりと確信した。」

その、いつか実現するだろう確信を、映画では時間を縮めて、その時のパリ訪問で実現させただけ、と私は読み取りました。

それと、この独り言は酒場でつぶやかれるような形になっているんだけど、

この直前の文章で、チャーリーの空になったグラスに給仕が、酒はもういらないかと、尋ねると、チャーリーは「いや、もういい」英語ではNo, no more. と答えるんですね。

それが、また比喩的でいいなぁ、と思います。

酒はもういい、と断ると同時に、あのころの浪費生活や金で何でもできると思っていた自分、それに群がっていた人たち、酒におぼれていた自分、そういったすべてを「もういい」と言っているようで、好きです。

その後で、「もう、子供を手に入れること以外、何も楽しいと思わない」と独白するんです。

本作品中には、夜中に三輪自動車を盗んで妻以外の美女と一緒に乗り回した回想などが、出てくるんですね。

そういう過去の自分を反省しているわけですよ。

「もう二度といらない」って、言っているんです。

 

ああ、ここでわかりました。

私が『グレート・ギャッツビー』を好きじゃないわけが。

あちらの作品では、その虚しさを作品全体で表しているけど、主人公ギャッツビーがそれに気づかずに無残な死を遂げる、というのが寂しすぎるのかな、私にとっては。

一方、こちらの短編『雨の朝パリに死す』では、主人公チャーリーに反省があり、希望が残っています。

 

私はかつて『グレート・ギャッツビー』を日本の小説『杜子春芥川龍之介著に比べて、虚しすぎると思いました。杜子春も、ギャッツビーとは違う方法ですが富を手にし、浪費を繰り返します。しかしながら、最後には悟りのようなものを得ます。

その違いを洋の東西の違いかと思いましたが、『雨の朝パリに死す』では、フィッツジェラルドさんも、主人公チャーリーに悟りとまではいかなくとも反省させているんですね。

 

また『雨の朝パリに死す』原作と違って映画で良かったのは、チャーリー(映画ではチャールズ)の友人で、亡妻の姉マリオンの夫となったリンカーンが、すごくカッコイイせりふを言うんです。主演男優ほどハンサムではなく、やや不細工なんだけど、あのセリフ…しびれました。そのセリフに表れた彼の人柄ですね。長年、それに気づいていて、忍んでいて、このときに、それを言うか!

友人の悲しみを理解する心の深さ、妻を許し、愛し続けてきた度量の大きさ。

カッコイイです。

これは、脚本家と監督の力ですかね。

 

なお、この『雨の朝パリに死す』は朗読CDがアマゾンになくて、原書・邦訳・そしてDVD視聴だけ、しました。

 

興味ある方はどうぞ、御覧あれ。